第1回 寧波(明州)・三江口・天童山~呉の国1 (2009年3月実施)
中国江南のみち 寧波(明州)・三江口・天童山 1泊2日の旅
第一回は「寧波の旅」でした。どうして旅倶楽部のスタートが、「寧波」なのか? 日本の古代史においては、まず朝鮮半島の歴史、交流が重要ですが、航行技術が発達し、直接中国との交流が始まると、寧波が中国の窓口の港でした。中国が日本の文化に強く影響を与えた時期は、遣唐使の頃(唐)と平安末期~鎌倉時代(南宋)と言われています。最澄・空海、栄西・道元の時代です。鑑真が何度かの日本への渡航に失敗し、一時期身を寄せていた寺(阿育王寺)も近郊にあります。
最澄は短期留学生として、寧波の南方にある天台山で修業をし、 空海は、長期留学生として、ここから西安に行きます。栄西や道元は、近郊の天童寺で修業を積みます。天童寺には室町時代に雪舟もやってきます。道元の開いた永平寺の伽藍が天童寺に似ているのは、この為ですが、道元が真似たものではなく、永平寺三世義介(ぎかい)が、わざわざ渡航し学び作ったものです。道元は、精神的なものをあくまで追求し、世俗的な寺院経営を嫌った人物でした。
さて、この旅でもう一つ文化的に重要な場所に行きました。河姆渡遺跡です。我々日本人の主食は米です。中国では、一般的に揚子江より北が小麦・面・包子、南が米の文化と言われます。では、一体、米はどこからやってきたのか?日本では、縄文末期から弥生時代にかけて朝鮮半島を経由してやって来たようです。1973年この遺跡から紀元前5000年頃の稲籾の化石が発見されました。世界最古の稲籾の化石です。世界初の稲作は、もしかしたらこのあたりで行われていたのか?私の想像ですが、米の起源は、東南アジア周辺でメコン川流域から揚子江流域に伝わってきたのではないか?
まだ、行かれたことのない方は、是非、杭州大橋を渡って寧波周辺を旅してみて下さい。
東和旅倶楽部 幹事 牧ヶ野さまよりレポートを頂きました。
企画概要
司馬遼太郎氏は三十年程前、寧波(明州)を訪れた。 目的は古い町と港のにおい、海をみたい、さらに運がよければこの古い河港から海へ出てゆく、あるいは戻ってくるジャンク(戎克)のさまざまを見たかった。
寧波の地は水がゆたかである。西方(余姚方面)から余姚江が流れ、また南方(奉化方面)からの奉化江が流れてきて、寧波の低地で合流し、甬江になる。この三つの河川が合する点を、「三江口」 と呼ぶ。 三江口こそ、遣唐使の故地である。 遣唐使以後も、日本歴史の中から帆をあげて出て行った船や中国から日本へ帰る船の発着港であったと言われる。 この河口を土地では甬港と呼んでいる。
日次 移動都市 時間 交通 スケジュール3月28日 (土)
上海 寧波へ
午前発
専用車 「杭州湾大橋」を通って、寧波へ移動します(約3時間)
寧波ご到着後、奈良朝末にうまれて平安初期に入唐した最澄や空海も上陸した河港三江口、旧市舶司跡にご案内致します。 天一閣、町並み散策。 夕食は関係者を囲んでの懇親会を開催致します。 司馬遼太郎宿泊「華僑飯店」跡地に建てられた華僑豪生飯店にご宿泊頂きます。 昼食:○ 夕食:○… Continue reading
第2回 世界の不思議「銭塘江逆流の奇観」&文化名城 紹興~呉の国2 (2009年10月実施)
毎年中秋の前後に「銭塘江」では壮大な逆流現象が起ります。この時期の銭塘江は水量が比較的多く、川に海水が流れ込み、天下唯一の奇観といわれる秋の潮を形成します。この自然の逆流現象を眺める事は南宋時代から盛んとなりました。
第二回は、「杭州湾の逆流と紹興」の旅でした。 第二回は、「杭州湾の逆流と紹興」の旅杭州湾の逆流は、浅い三角形の杭州湾と潮の干満で発生する津波のような現象です。上海にいれば、8月~10月頃の潮のよい日に日帰りで見ることができます。近くの水郷/烏鎮と組み合わせれば、天気次第ですが、とても満足する小旅行が楽しめます。
紹興ですが、三つの視点で旅をしましょう! 一つ目は、やはり有名なのは紹興酒ですね。紹興酒の手作りの酒造元を訪ねました。紹興酒は米と薬草をブレンドし、じっくり発酵、熟成したお酒です。工場を簡単に見学した後、試飲をし、酒の販売会となります。酒造元の話では、一般に販売していないとのことで十八年物を購入しました。後で「上海でも安く売っていた!」との報告がありましたが、有名ブランドの空瓶が、売買される社会ですので、ここで買うのがよいと思います。実際、本当に美味しいのです。十年を超えたあたりから、酒から薬に変化するようであり、上海蟹との組み合わせは絶妙でした。 二つ目は、紹興は、紀元前500年頃春秋時代の越の都です。 「呉越同舟」「会稽の恥」の場所です。当時、呉の都は蘇州、越の都が紹興で、呉の夫差が越の勾践を破り、勾践は捕えられ、紹興近郊の会稽山で「臥薪嘗胆」するのです。その時代のものは、ほとんどないと思われますが、それを想像しながら、水郷の足漕ぎ舟に乗り、夜は臭豆腐の香る古い街並みを三輪自転車で回るのも、面白い趣向です。白壁に瓦屋根のような景観、ウダツのある街並みは、中国というよりも、日本の風景を感じさせます。遣唐使の伝えた色が朱色の寺院であるとすると、南宋の頃に僧が伝え、武士や町人に影響を与えた色は、このような色合いではなかったかと思います。
三つ目は、中国の思想家・小説家「魯迅」の故郷が紹興です。 辛亥革命の孫文とならび、中国の現政権が高く評価している人物です。やや神格化され過ぎている点はありますが、忘れてはならないのは、当時、こうした人を支えていたのは日本人であったということです。魯迅は紹興の裕福な家に生まれ、日本に留学し、東北大学で医者を目指します。そこで見た中国の悲惨な報道映画を見て、小説家、思想家として立ち上がり、上海を根拠地として活動します。それを支えたのが内山書店(上海/虹口)の内山完造です。魯迅が亡くなる時に、それを見守ったのは、内山完造、その妻、日本人医師、歯科医の4人で、全て日本人でした。
こうした経緯だけでとらえれば、日本人は欧米列強と中国王権(清王朝)から、中国を開放した立役者として、日中交流は、もっと簡単に進むはずでした。どこかで、進むべき道を踏みはずしたのです。 今回の旅行では、時間がなく残念ながら会稽山に行けませんでした。また、上海に魯迅ゆかりの場所は、たくさんあります。少し学んで、杭州や龍井村あたりと組み合わせて、再トライするのも面白いと思います。
東和旅倶楽部 幹事 牧ヶ野さまよりレポートを頂きました。
第3回 赤壁・襄樊・三顧の礼~蜀の国1 (2009年12月実施)
「三国志演義」今回はその中でもハイライトとも言える英雄たちの叙事詩・赤壁古戦場とかつて劉表が支配していた町・襄樊、劉備の跳馬檀渓、襄陽古城、諸葛孔明が晴耕雨読を愉しんだ古隆中三顧の礼の舞台へご案内致します。
武漢では、関係者を囲んでの懇親会を開催し、三国志の真髄に触れることができます。
第三回は「武漢・赤壁・襄樊」の旅でした。 中国で最も有名な物語と言えば、「三国志」でしょうか?中国では小学生の頃に学ぶ そうです。三国志は2世紀末~3世紀頃で、呉(孫権)の国は、南京に都があり、上海周辺も呉になります。これまでは、呉の国を旅行したことになります。 旅倶楽部では、今後、劉備、諸葛孔明の「蜀」(第五回)、曹操の「魏」(第七回)を取り上げて行きます。今回は、孫権が建てた夏口(武漢)城「黄鶴楼」、劉備と諸葛孔明が出会う「三顧の礼」の舞台と、最大のクライマックス「赤壁の戦い」の舞台を訪問しました。
上海から空路武漢へ→バスで赤壁→武漢/黄鶴楼→バスで襄樊/古隆中、空路上海 と、やや強行な日程でしたが、高速道路も整備され、車中で映画「レッド・クリフ」を観賞しながら、スムーズに回れました。襄樊の空港は、小さな空港で、夜になってなかなか見つからず心配しました。小さなターミナルから歩いて搭乗するのも、何か映画の主役になったような感じで面白く、上海までの揚子江に沿った夜景がとても綺麗でした。 さて、今回の旅と日本との関係は何でしょうか?映画で諸葛孔明を演ずる日本人俳優?そういう考え方もないではありません。この企画の動機としては、映画「レッド・クリフ」が発表され、赤壁の戦いが旧暦の11月頃で、諸葛孔明が「東南の風」を予測したことが勝利を生んだ!ならば、その時期に行ってみよう、が動機だからです。 しかし、それだけでは寂しいので、付け加えます。「魏志倭人伝」はご存じでしょうか?日本(倭)が、遺跡や石器などではなく、文献上で最初に登場するのが、三国志時代(日本では弥生時代)の「魏」の文献なのです。当時の日本人(倭人)は体中に入れ墨をしている蛮人のように表記され、また、邪馬台国の位置が記載され、九州説、大和説などが研究される元となる文献です。この頃の日中の文化の差は、圧倒的ですね。博物館などで見る青銅器などの大きさや、古さには、驚かされるばかりです。
ところで、日本という国号は、いつから使われ始めたのでしょうか?日本史の教科書では、平気に石器時代→縄文時代→弥生時代→大和・古墳時代→飛鳥時代→奈良時代・・・・・などと記されていますが、「日本」はいつから始まったか?については、ほとんど説明がなかったと思います。663年に日本は朝鮮半島の百済を助ける為に唐・新羅の連合軍と白村江で戦い敗れます。多くの百済人を受け入れるとともに、唐・新羅の侵略に備え、防人などの軍備を備え、律令制を取り入れ奈良に藤原京を置き、国家の統一を進めた。 この頃に「日本国」という国号ができたのではないか?というのが学説のようです。 701年の大宝律令や、最澄などの遣唐使の渡航証明書?などには、明確に日本国の文字使用されているようです。なので、聖徳太子や大化の改新などの登場人物は、日本人ではないのです。 「赤壁の戦い」が行われたと同じ時期を選択したのですが、やはり少し寒かった感じでした。揚子江の水位は、三峡ダムにより以前よりも10m近く低くなっており、向こう岸がすぐ見える川となっていました。曹操の大軍が上流からそのまま押し寄せれば一たまりもない感じがしましたが、想像の中で、水位を10m上げてみると、なるほど、向こう岸は水没し、色々な入り江が複雑にでき、東南の風が吹いて霧が立ち込めれば・・・・、1800年前に遡った境地でした。
東和旅倶楽部 幹事 牧ヶ野さまよりレポートを頂きました。
企画概要
日次 移動都市 時間 交通 スケジュール 12月19日 (土) 上海浦東発 武漢着武漢 ↓ 赤壁 ↓ 武漢 午前便 FM9361 08:30/10:30 (暫定)
国内線専用バス 九寨溝から黄龍へ移動(約3時間) 朝食後、専用車で赤壁へ移動致します。 (約180キロ・約2時間30分)
英雄たちの叙事詩赤壁・赤壁大戦陳列館・拝風台・周瑜石像にご案内致します。ご見学後、武漢に戻り、黄鶴楼ご見学。… Continue reading
第4回 旅順・大連歴史浪漫紀行 (2010年4月実施)
長い間、外国人は一部エリアのみ立入を許可されていた旅順が、2009年に前面的に解放されました。 小説「坂の上の雲」の舞台でもある旅順の貴重な史跡や博物館など、見どころにご案内致します。
第四回は「大連・旅順」の旅でした。 さて、いきなり近代史、100~150年位前の時代の旅です。昨年(2009年)末にNHKで「坂の上の雲」第一部(原作:司馬遼太郎)のドラマが放映開始されました。今年の年末が第二部で、日露戦争/旅順攻防を中心としたドラマが放映されます。
これに触発された大学生の息子が、全八冊の大作を読み終え、「大連に行ってみたい!」と言ったのが、動機の一つです。タイミングよく昨年より旅順が外国人観光客に開放され、大連と旅順港、203高地などを訪問することにしました。 動機は、それだけではないのです。これまでの第一回~第三回の旅の根底には、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」シリーズが企画の動機になっています。中国(19江南のみち、20蜀と雲南のみち、25閩のみち、40台湾紀行)、韓国(2韓のくに紀行、26耽羅紀行)日本(省略)を読み進む内に、日本人はどこからやってきたのか?日本の文化は?国家・国境とは何なのか?を考えることになりました。「坂の上の雲」は戦争賛歌のような小説ではなく、こうした疑問に対する最終稿のような気がします。 大連は19世紀後半まで三山浦と呼ばれる小さな漁村でした。清朝は1840年のアヘン戦争以降、西洋列強の侵略を受け、1898年に帝政ロシアとの間に租借地とする条約を結び、帝政ロシアが命名した「ダーリニー」(ロシア語で「遠い」の意味)を語源としているようです。その後、日露戦争(1904年)を経て日本による租借が始まり、1905年日本軍により「大連」と正式に名付けられたようです。 大連の冬は寒いのでしょうが、海産物に恵まれ、食事も美味しく住み易そうな好印象のある街でした。夏はリゾート地として、また海岸を利用したゴルフの難コースもあり、また中国でも有名なモデル学校があり、各地から美人が集まる街だそうです。騎馬婦警なども有名で、誰もが、もう一度ゆっくり行ってみたいとの感想でした。 中山広場には、日本統治時代の西洋風の建築物が並び、旧ヤマトホテル、旧満鉄本社ビルなど、日本の明治村(愛知県犬山市)を訪れている感じがしました。すなわち、当時の豊かさと明るさを感じるばかりで、どうして、これが今に繋がらなかったのか?と思いました。 旅順は、どうしても一度行ってみたかった場所でした。日露戦争の激戦地203高地、旅順港閉塞作戦の「虎のシッポ」、水師営の会見所などなど・・・。行ってみて、想像通りであり納得する景観でした。小さい頃、食べ物の好き嫌いを言うと祖母が「乃木大将のお母さんは、乃木大将が好き嫌いをすると、毎日嫌いなもの出して教育した」と言って、私を叱りました。母は文部省唱歌「広瀬中佐」を歌って聞かせ、友人や後輩を大切にすることを教えました。多くの日本人・ロシア人の生命を失ったこの戦争は、そんなに昔のことではないのです。以前からこの戦争は、何かその後の戦争の贖罪意識と感じが異なる気がしていました。何だろう?
旅順博物館の正面に建つ建物が、関東軍司令部でした。水師営の会見所を通り過ぎ? 東鶏冠山北堡塁(ロシア軍の要塞)に行きました。ここで中国人の観光客に会い、ふと思いました。中国人は「中国にあるロシア軍の要塞を日本人が攻め落とした場所」を見て、どう思うのだろうか?経済的な利権の為だけに、よその土地で勝てるかどうか分からない強敵相手に数万の生命を犠牲にするのであろうか? 1840年に勃発したアヘン戦争は、清と英国の貿易摩擦が発端で、輸入超過の英国がインドで栽培したアヘンを密輸出して超過分を相殺しようとし、反発した清を軍事力で押さえつけた戦争です。アフリカの植民地化や奴隷の売買なども含め、この時代の正義は一体何であろうか? 「坂の上の雲」では、西洋列強との戦いのなかで、日本を守り、その文化の源泉である東アジアを守るとの「志」を伝えているのではないか、と。司馬遼太郎氏が「街道を行く」で述べ、「坂の上の雲」で伝えたかったのは、この「志」ではないか?最終稿と言ったのは、そういう意味です。しかしながら、日露戦争後の日本は、関東軍と満州鉄道の利権を拡大しようとする人々によって、西洋列強と同じことを行い、贖罪を背負う歴史へと足を踏み外してしまったのではないでしょうか? 大阪万博の年(1970年)に歌われたのが「戦争を知らない子供たち」(杉田二郎)です。上海万博の年に、皆さんも、大連・旅順に行って、色々と想いを巡らせてみて下さい。
東和旅倶楽部 幹事 牧ヶ野さまよりレポートを頂きました。
企画概要
日次 移動都市 時間 交通 スケジュール 4月3日 (土) 上海浦東大連 午前便
国内線専用車 空路、大連へ。大連市内観光。 欧風建築物が周りを囲む中山広場、・当時の面影を残す大連賓館(旧大和ホテル)、かつて多くの日本人が住んでいた旧日本人街を散策致します。 満鉄の歴史を伝える大連満鉄旧跡陳列館と旧満鉄総裁室、… Continue reading
第5回 成都・九寨溝・黄龍~蜀の国2 (2010年7月実施)
成都三国志とエメラルドグリーンの童話世界へ 成都・九寨溝・黄龍3泊4日
蜀の都・成都 諸葛孔明、劉備玄徳など蜀の英雄たちがひっそりと祀られている武候祠、幻想的な風景が続く手つかずの自然が残る秘境、九寨溝と黄龍をめぐる旅をお楽しみください。 また九寨溝ではチャーターバスご利用で見どころをたっぷり観光、高度順応するために九寨溝、黄龍の順でゆっくりご案内致します。
第五回は「成都・九寨溝」の旅でした。
旅倶楽部の中間点は、「九寨溝」です。万里の長城、兵馬俑と並んで、中国にいる間に是非行きたい場所として外せない世界遺産が九寨溝です。四川大地震(2008年)や今年の舟曲の土砂崩れによる大災害は、私たちの記憶にしっかり残っています。しかし、そうした自然や地殻変動を繰り返しながら出来あがった風景が九寨溝なのでしょう。1970年代に森林伐採の労働者たちが偶然発見した渓谷で、そこに住むチベット少数民族以外立ち入ることが稀な地域でした。1974年に井戸を掘っていた農民によって偶然発見された兵馬俑と似ているような・・・。2003年に九寨黄龍空港が出来て成都空港から40分程度で到着するのですが、着陸する際に険しい山々が迫り、一瞬、大丈夫かな?と不安がよぎります。以前は成都からバスで13時間の道のりで、今でも時々バスが転落する険しい道だそうです。 九寨溝とは、どんな所か?日本の上高地を大きくして、富士山の頂上に持って行った様な所、と言えば分って戴けるか?宿泊地のシェラトン・ホテルは快適で、チベット民族ショーなどもあり楽しめます。バスで移動しながら、ビューポイントをハイキングするのですが、昼食は、お弁当(オニギリなら最高!)を持って外で食べたいですね。天気に恵まれるのが一番ですが、ゆっくりゴロゴロするのもよいのでは? 黄龍へは、九寨溝からバスで3時間の移動です。九寨溝より更に高地で4000mを超える峠を通って、3500mの場所ですので、酸素を買ってハイキングします。冬は、閉ざされた場所になり、ゴーストタウンとなるそうです。秋の紅葉のシーズン(国慶節の頃)が、もう一つのベストシーズンだそうですが、初雪もその頃とか・・。夏なら気温は15~26度位とのことです。半袖に上着を持参、急な雨に傘、ウォーキングしやすい靴で、カメラは小さめの方が荷物が軽くてよいのでは。紫外線が強いので日焼け止めに帽子を持参、そんな感じです。
「成都の犬は、太陽を見ると吠える」そうです。紫外線が少ないので肌の白い美人が多いのだとか聞きました。確かに、モヤっとした天気でした。「国破れて山河あり」の杜甫草堂(毛沢東が、ここの「草堂」の文字の前で写真に写り、それを真似る人が多い)、何と言っても三国志の蜀の国の都であり、劉備と諸葛孔明が一緒に祀られている武候祠博物館などを巡りました。成都郊外の世界遺産「都江堰」も四川地震の影響を受け痛々しいものの、2200年以上前の機能を維持していることに感動します。秦の時代(紀元前256年)に始まった治水事業が成都・四川盆地の繁栄を支え、ここの産物が長江を経て武漢に行き、武漢から漢口を遡って中原に供給され、秦の国家統一を支えたと聞き、高い土木技術と水運の発達に驚かされました。 お子さんの参加もあり、朝早く起きて「熊猫(パンダ)繁育研究基地」へ行くことになりました。パンダの活動は朝が中心ということで、急遽決定しました。お子さんよりも大人が喜んでいる風に見えましたし、やはり、お土産は本場のパンダ・グッズではないかと思いました。
東和旅倶楽部 幹事 牧ヶ野さまよりレポートを頂きました。
企画概要
日次 移動都市 時間 交通 スケジュール 7月30日(金) 上海浦東 成都成都 九寨溝 午前便 又は昼便
午後便 又は夕刻便 国内線
国内線 専用車 お乗換えにて九黄空港へ。 九黄空港にて現地日本語ガイドがお出迎え致します。 九寨溝地区へご移動致します。(約1.5時間) 夕食:○ (九寨溝5つ星シェラトンホテルまたは同等ホテルご宿泊) 7月31日 (土) チャーターバス… Continue reading
第6回 福建土楼と海のシルクロード
世界遺産の客家土楼を訪ねマルコポーロゆかりの地を訪ねてきました。
マルコ・ポーロが父や叔父とともにベネチアを離れ、東方の長い旅に立ったのは1271年頃であり、中国では元朝の最盛期、フビライ・カーンの時代です。 中東のシリア、ペルシアを通りシルクロードを越え、3年半の旅行の末に大都(北京)に到着し、フビライに会います。 そして、フビライの信任を得て、17年間中国に滞在し、元来商人なのですが、地方官として西安、成都、雲南にまで足を延ばしています。
1295年にベネチアに戻りますが、帰りは、蘇州、杭州を経て、今回テーマ「海のシルクロード」を通ってインド・ペルシアから帰還しています。 こうした内容が紀行文として書かれているのが、「東方見聞録」です。
「東方見聞録」について、もう少し加えておきましょう。 東方見聞録はマルコ・ポーロが著した、となっていますが、成立の経緯は、以下の通りです。 ①1295年にベネチアに帰還後、世界一周旅行の体験者として色々な風評にさらされます。 「ほら吹きマルコ」と言われたり、耳新しい奇談として興味を持たれたりし、やがて著名市民となります。 ②1298年ベネチアとジェノアが交戦状態となり、マルコはガレー船艦長の指揮顧問官となり戦闘に参加し、クルゾラ沖海戦で敗れ、ジェノアの捕虜となります。 約1年の牢獄生活で、旅行メモに基づいて、同室の囚人ピサの物語作家ルスチケロに口述し、書き写させたものが祖本となり、そこから140余種の異本が作られ今日に至っています。 ③「大風呂敷マルコの物語」などと信憑性を失っていた「東方見聞録」に、再評価の機会を与えたのは、欧州の東洋学者です。 1865年のG・ポーチェによるフランス語訳注、1871年以降数年にわたるH・ユールの英語訳注・・、などなど、中国の史料を研究する学者たちが、中国文献の史実と符合・立証することにより、重要な史料としての評価を得ることになります。
さて、マルコ・ポーロが中国を離れる最後の都市が「泉州(東方見聞録ではザイトゥン:刺桐→デイゴなどのマメ科の木、普通語ではツートン、泉州あたりの方言)」です。 東方見聞録では、当時のアレクサンドリア(エジプト)と並ぶ世界二大海港であると書かれ、インドやイスラム世界との交易が盛んであることが伺えます。 灯台の代わりとなったという開元寺(仏教)の塔、中国最古のイスラム寺院清浄寺、中国唯一の海事博物館などが見どころです。また、河に架かる石橋の橋脚が上流からは急流を防ぎ、下流からは上げ潮を防ぐ為、船の先端の様な形になっていることも東方見聞録に載っています。
重要なことは、西洋史における大航海時代や、更に明の鄭和の遠征よりも古い時代から海のシルクロードとして活発に交易があり、第八回企画で取り上げる予定の「陶器の道」としても重要な役割をしていた海港都市であったということです。
泉州は、このように歴史上重要な都市でありますが、「地球の歩き方:中国」などでは取り上げられず、特別の観光地ではない為、訪れる人も少ないようです。 今回訪れた「福建土楼」も世界遺産では、なかなか訪問しにくい場所ですし、第九回企画で取り上げる「台湾」を中国側から意識できる場所(金門島)としても、ややマニアックな旅であったと思います。もう少し日程に余裕があれば、アモイのコロンス島などに足を運んでみたいと思いました。
開催日:2011年1月15日~16日 訪問地:泉州、開元寺、清浄寺、福建土楼
第7回 ~魏の国~洛陽・鄭州/牡丹の咲く中原
旅倶楽部のなかでも本企画では、 いよいよ、中国文明発祥の地<中原>を訪れます。
ここでは訪問したい場所が多く、実はどの様に企画するか悩ましい地域です。 本当は1ヶ所をゆっくり、じっくり旅したいところですが、今回は、中国七大古都の内、洛陽、安陽(他は北京、南京、杭州、西安、開封)を中心に、世界遺産3ヶ所(龍門石窟、天地之中歴史建築群(少林寺)、殷墟)を組み合わせた欲張りな企画を作成しました。
まず驚いたのは「漢魏古城址」です。 洛陽市の中心から東北に7~8km外れた麦畑に私たちのバスが到着しました。 道路の片隅にコンクリート製の標識があり「漢魏古城址」と記されており、漢・魏の時代の都跡で、西の城壁にあたる場所でした。 ここが魏志倭人伝の舞台になったところなのです。 一言で洛陽の都といっても、位置も規模も時代により異なるのです。 隋、唐の時代では、市街の中心を流れる洛河を挟んで東西に位置する都が形成され、殷(商)、夏などの古代の発掘は、さらに別の場所で進んでいるようです。 (安陽の殷墟より、古い遺跡群が発掘・研究されているようで、その成果が楽しみです) 一面の麦畑に城壁跡と思われるあぜ道、そこを自転車で通り過ぎる農夫、旅倶楽部ならでは観光名所でした。 今年開館したばかりの洛陽博物館を訪れました。 洛陽の歴史が非常に分かりやすく解説され、展示物も石器、青銅器、鉄器など時代毎に豊富です。 また、唐三彩の展示がすばらしく興味のある人にはお勧めの場所です。 少林寺の渋滞で時間を使い、添乗員さんの機転で出口から滑り込んだ鄭州の河南博物院とともに歴史好きには必見の場所と思います。
三国志についても少しふれておきましょう。
魏の『曹操』が拠点としたのは「許昌」です。 また、黄河を挟んで曹操と対立していたのが『袁紹』で、曹操と袁紹の戦いの決着をつけた場所が「官度」です。 (今回の企画では、残念ながら両方とも外れてしまいました。北宋時代に最も栄えた「開封」とともに企画に入れたかった場所です)
『曹操』は「官度の戦い」の後、勢力を拡大し、第3回企画で取り上げた「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍との戦いに敗れ、西方(長安方面)への拡大に目を向けます。 『劉備』は、赤壁より南側の荊州四郡を平定し孫権から借用するという形をとり、友好関係を保ちながら成都方面へ進撃し、蜀の国を建て皇帝となります。
「三国志」の三国(魏・呉・蜀)の完成です(第5回企画では成都の「武侯祠」にある劉備の墓を訪れました)。 その後、三国の中間にある荊州を護っていたのが、生涯劉備に仕えた関羽です。
『関羽』は曹操と対峙し度々脅かしますが、劉備の勢力拡大を警戒する孫権の裏切りにより、背後を突かれここで最期を遂げます。 『孫権『は関羽の首を曹操に送り、劉備の怨みを曹操に転じようと図りますが、曹操は手厚く関羽を葬ったと言われ、その場所が洛陽の「関林廟」です。孫権の墓は南京にあります。 曹操の墓については、最近、安陽市で発見されたとのニュースがありましたが、反論も多く、その行方が今後、楽しみです。
洛陽は、牡丹の名産地でもあります。 中国の国花は牡丹?と思いきや、梅との争いで決着していないと言うのが、現状のようです。 洛陽の至る所に牡丹園があり、この季節には多くの人々が訪れていました。
牡丹を中国では「ムダン」、韓国で「モラン」、日本では「ボタン」というのは、言語学的に面白い現象ではないかと思います。
3つの世界遺産は、それぞれに感慨の深い場所で一見の価値あるものでした。 「龍門石窟」は時代によって石仏の製作→破壊→護りを繰り返して今日に至っており、今でも堰き止めた河の影響(湿度)を心配しているようでした。 河を挟んで対岸から石窟群を眺め、夕刻の月が背後に上った景色は絶景でした。
崇山周辺と登封一帯は、古代中国の宇宙観では天地の中央にあるとされ「天地之中」と呼ばれ、少林寺を始め歴史建築群が2010年に中国40番目の世界遺産になりました。
マイカーブームで訪れる人の多さに圧倒されましたが、途中に通った登封の街全体が少林寺拳法養成学校になっていることに驚きました。 ここに全国から多くの学生が集まり、映画俳優や雑技の仕事につく人が養成され職についているとのことです。
黄河を渡り3つ目の世界遺産「殷墟」は安陽市の外れに静かにありました。
地下に設置された博物館では、本物の甲骨文字を見ることができ、また、祭祀を行った場所には、生贄となった人や動物の骨をガラス越しに直接見ることができました。 壮絶な古代の負のオーラを感じる遺跡です。 初めて渡った黄河は色こそ黄河でしたが、水量に乏しく大河の感じはしませんでした。 しかし、どこまでも続く麦畑を見ながら、この大地を育ててきた大河であることは間違いなく、ゆっくりとした雄大な時の流れを感じつつ帰路につきました。
開催日:2011年4月30日~5月2日 訪問地:洛陽、安陽、龍門石窟、天地之中歴史建築群(少林寺)、殷墟
<東和旅倶楽部 第8回>景徳鎮と黄山&温泉 2泊3日
千年の陶磁器歴史を誇る景徳鎮と一面に雲海が広がり刻々と姿を変え大自然の神秘を感じさせる黄山、古代よりその姿は、多くの歌人が漢詩に読み水墨画巨匠達のモチーフとなっています。
とりわけ雲海に広がる雄大な景色はまさに絶景です。
1日目は人気の酔温泉にてSPAリゾート気分をご満喫、
2日目は山頂にご宿泊、晴れた日には、夕日や日の出をご鑑賞いただけます。
※「あなたの中国への理解や価値観が変わる・・・」東和旅倶楽部は、中国歴史・文化を掘り下げたツアー企画です。
月日 移動都市 時間 交通機関 スケジュール・食事 9/10 (土) 上海虹橋 景徳鎮景徳鎮 屯渓 午前
午後
国内線専用車
空路、景徳鎮へ。 到着後、景徳鎮到景徳鎮千年の陶磁器歴史を展示する陶磁光陶磁歴史博物館、古窯瓷廠にご案内致します。 午後、屯渓地区に移動致します。(約200キロ・約3時間) 夕食後、酔温泉施設にてお楽しみください。(温泉施設1回利用料含) 華美達酒店又は同等クラス泊(4星) 朝×昼◯夜◯ 9/11 (日) 黄山 午前 専用車 黄山風景区ゲートへ移動後(約1時間)、ロープウェイで黄山に登ります。 飛来峰・光明頂・排雲楼景区など見学しながら約3時間のハイキングを お楽しみください。 天気が良ければ、夕方、排雲亭で夕日をご鑑賞ください。[宿泊先] 華美達酒店又は同等クラス泊(4星) 朝◯昼◯夜◯ 9/12 (月)… Continue reading













